名古屋高等裁判所 昭和53年(ネ)173号 判決 1978年7月31日
控訴人
国
右代表者法務大臣
瀬戸山三男
右指定代理人
細井淳久
外一名
被控訴人
福永善一郎
主文
原判決中控訴人敗訴の部分を取り消す。
被控訴人の請求を棄却する。
訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。
事実《省略》
理由
一名古屋地方検察庁豊橋支部検察官検事江口英彦が公権力の行使に当る公務員であり、昭和四八年六月二六日名古屋地方裁判所豊橋支部に対し、被控訴人を、次の公訴事実により窃盗罪で起訴したこと、その公訴事実は「被控訴人は、第一、昭和四七年六月三日午後六時ころから同月四日午前八時ころまでの間に、岐阜市溝口二七二番地慈恩寺前空地において、野川優所有のナンバープレート二枚(時価二〇〇円相当)を窃取し、第二、同年一〇月三一日午後六時ころから同年一一月一日午前九時ころまでの間に、同市都通二丁目一五番地岐阜マツダ都通中古車センターにおいて、浅井英雄の管理する上村明仁所有の普通乗用自動車一台(時価五〇万円相当)を窃取したものである。」ということであること、同裁判所は昭和四九年七月三〇日右各公訴事実に関し、被控訴人が右各物品を窃取したことを認めるにたりる証拠がなく、したがつていずれも犯罪の証明がないとの理由により無罪を言い渡し、この判決に対し、検察官から控訴の申立てがなく、同判決が確定したことは当事者間に争いがない。
二<証拠>によると、何人かによつて前記公訴事実のとおり、本件ナンバープレート及び本件自動車が窃取されたこと、被控訴人は昭和四八年二月一四日午後一時四五分ころ愛知県宝飯郡一宮町大字一宮字新切四三番地の一四先で松下文明から現金二、〇〇〇円を強取したが、その犯行現場附近まで同車を運転し、さらに同日午後三時一五分ころ同県豊橋市加茂町字村上五〇番地付近の路上で(公安委員会の運転免許を受けないで)同車を運転し、同日これを所持していたこと、同車には、右ナンバープレート二枚が取り付けられていたこと、そして被控訴人は、同日同県豊川警察署司法警察員により強盗被疑事件で逮捕され、司法警察員及び検察官から取調べを受けたが、前記各窃盗の被疑事実を否認したこと、前記公訴提起時及び判決時においても、被控訴人を窃盗犯人として認定できる直接証拠がなかつたことが認められる。
三1 ところで、検察官は、直接証拠がなくても、情況証拠により当該被疑者の犯行であるとの十分な嫌疑を推認でき、有罪判決を得る見込みがあれば、適法に公訴を提起できるものであり、裁判所が検察官と異なつた評価に基づいて無罪判決を言い渡し、これが確定したからといつて、直ちにその公訴提起が違法となるものではなく、検察官が経験則上首肯できない程度に不合理な心証を形成して公訴を提起した場合、初めてそれが違法となるにすぎないものと解すべきである。
2 そこで、まず被控訴人を窃盗犯人と認めるに十分な情況証拠が存したかどうかについて、以下順次検討する。
(一) (被控訴人による盗難品の所持について)
被控訴人が昭和四八年二月一四日本件盗難品を所持していたことは前記のとおりであるが、さらに<証拠>によると、被控訴人が司法警察員及び検察官に対しそれぞれ「昭和四七年一一月二日ころ被控訴人が河合某から本件自動車(本件ナンバープレートが取り付けられたもの)の引渡しを受けて、現在までこれに乗つていた。」と供述し、その旨を記載した右各供述調書が作成されたことが認められる。そして<証拠>によると、同<証拠>には、昭和四七年一一月二六日午後一〇時すぎころ岐阜県武儀郡武芸川町高野四〇一番地の三井藤宮次方西側の路上に、被控訴人が運転してきた本件自動車が駐車していた、との記載があることが認められ、次に<供述調書>によると、右各供述調書中には、豊田政晴及び安藤国子の各供述として、いずれも「被控訴人が昭和四七年一一月上旬以降本件自動車を運転して名古屋市港区辰己町二丁目五二番地所在の右安藤方に居住する右豊田を訪れたことがある。との記載があることが認められ、右各供述調書は被控訴人の前記供述を補強するものということができる。
ところで、検察官は、被控訴人の右供述に基づいて、被控訴人が昭和四七年一一月二日ころ以降本件盗難品を所持していたと認定したものと推認できるが、それについては、前記説示によると合理的な根拠があつたものということができる。
(二) (盗難品の入手経路等に関する被控訴人の弁解について)
(1) 前掲<証拠>によると、被控訴人は司法警察員に対し、「被控訴人が昭和四七年一〇月二日ころ妻福永庸子の知人の河合某に一二万円を貸し付け、同年一一月二日ころ右河合から、その担保として、本件自動車を預つた。この貸付資金は妻と協力して貯蓄したものであつた。」との供述をし、その旨を記載した供述調書が作成されたことが認められる。
ところが、<証拠>によると 右庸子は検察官に対し「庸子は昭和四七年一月ころから岐阜市庵町のアパートで被控訴人と同棲し、その後同市桜木町所在の長谷部アパートに転居した。当時被控訴人は運送店に勤めていたが、欠勤がちであつた。庸子はマツサージ師として働いていたが、被控訴人と不和となり、同年一〇月九日家を出て、名古屋市に別居した。」と供述し、その旨を記載した同供述調書が作成されたことが認められ、次いで<証拠>によると、庸子は検察官に対し「庸子が知つている河合なる姓の人物は、姉婿の河合正清である。前記家出当時、被控訴人には他人に一二万円を貸し付けるほどの経済的余裕がなかつた。」と供述し、その旨を記載した右供述調書が作成されたことが認められ、さらに<証拠>によると、河合正清は司法警察員に対し「河合正清が当時岐阜県関市天王寺町四番地に居住していたところ、被控訴人が昭和四八年一月四日ころから同河合方を訪れるなどして、庸子を探していた。河合は被控訴人から金借したことがなく、本件自動車を所持、所有したこともないので、被控訴人に同車を預けたこともない。」と供述し、その旨を記載した右供述調書が作成されたことが認められる。
以上のようなことからすると、検察官が、被控訴人の供述するところの「河合某」なる人物が河合正清であると認めたことは裏付関係の情況証拠とみられる庸子の検察官に対する右各供述調書及び河合正清の司法警察員に対する右供述調書に照らすと、その相当性があると認めても差し支えない。さらに進んで、被控訴人の前記供述部分が虚偽であると、検察官が判断したとしても無理からぬところである。
(2) 前掲の<証拠>によると、昭和四八年六月一三日検察官から本件自動車の入手経路について取調べを受けた被控訴人は次のとおり供述した。すなわち「被控訴人は、昭和四七年四月末ころから長良川河畔の釣場で知り合つた河合某(岐阜市北方町居住)に対し、同年九月初めころ開張された賭博場で儲けた金の中から一二万円を貸し付け、同年一〇月二七日ころ合渡橋で出合つた同人に対しその返済を請求した。同年一一月二日長谷部アパートに来ていた同人からの手紙には、支払の猶予を求める文言があつたが、予めメモに記載してあつた同人への連絡先の電話番号を見て、電話で同人を岐阜市内の喫茶店に呼び出し、返済を請求したところ、同人がその担保として本件自動車を預けた。右メモは押収された同車内にあるはずである。」と供述し、その旨を記載した供述調書が作成されたことが認められる。
しかし<証拠>によると、当時岐阜市内には「北方町」なる町名の場所が存在しなかつたことが認められる。また<証拠>によると、愛知県豊川警察署司法警察員により領置された本件自動車内には、被控訴人の供述するようなメモが存在していなかつたことがうかがわれる。
さらに被控訴人の弁解するような名も住所も明確でない者に対し、一二万円という多額の金銭を貸し付けるにあたつては、借用証を差し入れさせるか、又は少なくとも、借主の氏名及び住所を確認して、これを書き留めるか記憶しておくのが通常であるのに、被控訴人の右供述によると、被控訴人においてかような方法をとらなかつたものと、検察官が認定しても、やむをえない状況にあつたものといえる。また担保として同車を預かるのであれば、自動車検査証をも一時預るか、又はその提示を求め、将来、移転登録手続の履行が可能な自動車であるかについて確めるべきところ、<証拠>によると、被控訴人の検察官に対する右供述調書には、「河合某が自動車検査証を同車から取り出して、同車のみを引き渡した。」との記載があるにすぎないことが認められる。
ところで検察官は被控訴人の入手経路等についての右弁解が虚偽であると判断したことは明らかであるが、前記説示によると、それが不合理であるということはできない。
(三) (窃盗の機会について)
前掲の<証拠>によると、被控訴人は昭和四八年六月一三日検察官に対し「被控訴人は、妻福永庸子と岐阜市内の長谷部アパートに居住していたが、庸子が家出して徳島県内で居住しているらしいとのことであつたので、右アパートの居室にあつた家財道具を処分し、昭和四七年一〇月二八日同県へ行き、翌月二日ころ岐阜市内に戻つてきた。」と供述し、その旨を記載した供述調書が作成されたことが認められ、次いで<証拠>によると、被控訴人は司法警察員に対し「被控訴人が昭和四七年一一月上旬ころ徳島県から名古屋市へ戻る際、同県心腹会関係者の「いかり」なる者から、愛知県心腹会豊橋支部所属の西川某への紹介状の代りに、「いかり」の名刺を渡された。」と供述し、その旨を記載した右供述調書が作成されたことが認められる。しかしながら、<供述調書>によると、同供述調書には、「徳島県心腹会関係者の「いかり」なる者は碇道善に該当するが、同人は昭和四七年二月一九日から同年一一月一六日まで高松刑務所で服役中であり、被控訴人とは面識もなかつた。」との記載があることが認められ、<供述調書>によると、同供述調書には、「被控訴人は昭和四七年四月ころから同年一〇月末日まで岐阜市桜木町一丁目一一番地の二所在の長谷部アパートに居住していた。」との記載があることが認められる。
ところで問題の時点で、碇道善が服役中であつたことなどを考慮し、検察官が碇の供述を信用し、これに反する被控訴人の供述部分を措信せず、かつ本件窃盗に全く利害関係のなかつたものと認められるところの、長谷部まさえの供述を信用し、被控訴人がその日時及び所在場所の関係からして、本件自動車を窃盗する機会を有していたと認定したとしても、それについては十分な根拠があつたものということができる。
(四) (窃盗の動機について)
前掲の<証拠>によると、福永庸子が昭和四八年六月一一日検察官に対し「被控訴人は使用していた自動車(フアミリア)一台の自動車検査証の有効期間が昭和四七年一〇月に満了することになつていたことから、庸子に対し事故車のナンバープレートを盗んできて付け換えれば車検をごまかせる、といつていた。同年五、六月ころ右フアミリアのトランクに岐阜ナンバーのナンバープレート二枚が入つていた。」と供述し、その旨を記載した供述調書が作成されたことが認められる。そのナンバープレートについて、前掲の<証拠>によると、被控訴人は昭和四八年六月一三日検察官に対し「右フアミリアの自動車検査証の有効期間が前記のとおり満了する。昭和四七年五、六月ころ同車のトランクに岐阜ナンバーのナンバープレート二枚を入れておいた。それは道路上で拾つたもので、いずれもナンバーを異にし、飾り物にしようとしたが、その後捨てた。」と供述し、その旨を記載した供述調書が作成されたことが認められる。
以上のとおり、右各供述の内容は一部相違しているが、検察官が、被控訴人に、少なくとも、ナンバープレートの入手についての動機があつたと認定したとしても、相当といわざるをえない。
3 以上のような情況証拠があつたことから考えると、検察官が被控訴人を本件窃盗の犯人と推認し、犯罪の嫌疑が十分であつて、有罪判決を得る可能性があるとの心証を形成したことについては、経験則及び採証の法則上、合理的な根拠があつたものと認められる。すると、本件各窃盗についての公訴提起は適法であつたというべきである。
四そうすると、被控訴人の控訴人に対する本件各窃盗についての公訴提起を原因とする慰藉料請求は、その余の判断をまつまでもなく、全部理由がないから、棄却を免れない。<以下、省略>
(三和田大士 鹿山春男 伊藤邦晴)